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慰安婦の勘違い

慰安婦とは洋公主だった!?

従軍慰安婦が高額な賃金によって募集された人達ではなく、強制連行された人達であったと言う証拠は、元慰安婦たちの証言以外にはない。その証言を聞くと、洋公主と勘違いしている可能性が!?

慰安婦の証言はじめに

日本軍が、朝鮮人女性を強制連行して、性奴隷にしたという証拠は、日本、韓国、アメリカのどこにも一切なく、あるのは元「慰安婦」とされる女性の証言だけである。

19人の元「慰安婦」とされる女性の日韓共同調査で、強制連行を主張している証言者は4名、そのうちの2名は日本における裁判では人身売買と証言を変えており、さらに残りの2名は終戦まで戦地とはならなかった釜山、富山にそれぞれ日本軍によって強制連行されたと証言している。

また、この共同調査を行った韓国挺身隊問題対策協議会は慰安婦のことを考えるより日本との喧嘩を望んでいるだけであったと非難されている。

主なおかしい証言は「
ジープで強制連行(アメリカ軍?)」、「避妊剤注射、ペニシリン治療(アメリカ軍?)」、「ブーツ履きで連発銃保持(アメリカ軍?)」、「命令に従わないと電気ショックで強姦(アメリカ軍?)」、「英語が話せぬまま連行(??)」、「1944年から3年間(終戦は1945年)」、「神風部隊(そんな隊はない)」、「1937年にインドネシアに連れて行かれて慰安婦となった(当時はインドネシアに日本軍はいなかった)」などです。

また、慰安婦だったとして補償を求めている韓国人女性の多くが、もともと売春を生業とするキーセンだったことは、近年の調査で明らかになっています。


その証言を紹介していく。

金福童

朝鮮人。14歳で旧日本軍にだまされて連行され、その後、台湾、香港や東南アジア各国の前線地で8年間にわたって慰安婦として従軍させられたと証言している。しかし、年齢から逆算すると金福童が22歳の時は、1948年で終戦からすでに3年も経っており、日本軍はどこにも存在していないなどの矛盾を抱えている。また、14歳だった当時は1939年であり、そのころ朝鮮半島に徴用令は出ていないので、「軍需工場に連れて行くと騙した」のは民間人である可能性が極めて高い。その上、金福童の望むように話を聞こうとした大阪の橋下市長との会談を土壇場でキャンセルしている。矛盾点を指摘されるのを恐れて、逃げたと見られている。さすがの朝日新聞も報道を控えるなどしている。さらに送られた場所もサイパンなのか中国なのかと言う事実が、同じ記事の中で食い違ったりしている。

吉元玉

朝鮮人。「11歳だった1940年から旧日本軍の慰安所で兵士の相手をさせられた」と証言している。これは現在の年齢と辻褄を合わせるための嘘だと思われるが、集会でも慰安婦としての体験は具体的に何も話していない。

金学順

1991年に慰安婦であったことを名乗り出た朝鮮人女性。
金学順が裁判所に提出した略歴では親に身売りされたとしている。

朝日新聞は、「連行された」とねつ造したが、韓国のハンギョレ新聞では、「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」という彼女の証言を報道している。

李容洙

韓国の大邱(テグ)生まれの韓国人女性。

1944年に日本軍に慰安婦として強制連行され、1947年まで台湾の慰安所で日本軍から強姦・暴行・拷問を受けたと主張している(
始めは友達のブンスンちゃんと家出して、売春斡旋人から赤いドレスと革靴を受け取ったと言っていた)。

ちなみに終戦は1945年8月であることから、大きな矛盾を抱えている。

1992年から民主党の岡崎トミ子参議院議員らの支援を受けて、日本国の総理大臣と天皇に対して、誠意ある謝罪と賠償を求める政治運動を行っている。

2015年の阿部首相の訪米に合わせて米国で講演したが、「満16歳の時に
英語も分からないまま日本軍に連行されていったのが台湾にある日本軍の神風部隊だった。そこで、日本軍兵士の部屋に入らないと言って殴られ、電気拷問まで受けた。」と証言。

日本軍では、英語が必要でない上に、1943年の台湾に神風部隊という部隊も存在しないし、電気拷問は日本の慰安婦ではなく、韓国軍慰安婦で行われていた拷問であることから矛盾が生じている。

また、証言の度に年齢が変わり、15歳で拉致という話から、16歳や14歳のバージョンが存在し、期間も2年の時と3年の時が存在する。

拉致された場所も台湾であったり、韓国・大邱であったりしている。
(連れ去り方も「家出した」、「寝ている所を日本軍に起こされて」、「寝ていたら日本人と女が来て口を塞がれた」などが存在している。)
連れて行かれた場所も日本であったり台湾であったりしている。

彼女の証言をまとめると、今までに18回違った方法で強制連行されていることになる。

アメリカ合衆国下院121号決議の審議では法案反対派の米国議員たちの前で泣き叫ぶパフォーマンスを見せたり、慰安婦象の前で泣き崩れるパフォーマンスを見せているのも彼女である。

証言の一部
●1992/8/23「 朝日新聞」
「1944年、満16歳の秋、友人に誘われて、日本人の男の人のところへ行き、即座について行った。」
「他の4人の韓国人女性と一緒に台湾へ連れて行かれた。」
●1993/7「写真記録 やぶられた沈黙」
「(友達の)キムプンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。〜(中略)〜行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。その人は私に包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。〜(中略)〜それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。大邱から私たちを連れて来た男が慰安所の経営者でした。」
●1995/11/27 「中日新聞」
「14歳の時、中国の大連から台湾に軍隊と一緒に軍用船で強制連行され、17歳まで兵士の相手をさせられた。」
●1996/08/10「中国新聞」
「15歳の時に川で水遊びしていてら致され、途中さまざまなごう問を受けながら中国・大連を経て軍用船で台湾へ。」
●2002/6/26「しんぶん赤旗」
「14歳で銃剣をつき付けられ連行された。」
●2004/12/4「全国同時証言集会・京都」
「1944年、16歳の時に韓国・大邱から軍服みたいな服を着た男に連行され台湾へ。
『日本軍慰安婦』としての生活を3年間強制された。」
●2005/4/21「同志社大学証言集会」
「ある日の夜寝ていたら、ある女性が首のほうに何かを突きつけながら、こちらを覗いていました。
よく見てみたら、帽子を深くかぶった軍人が立っていました。
その女性が片手で私の肩を抱いて、もうひとつの手で口を塞いで私を連れて行きました。
その時軍人が、私の背中に何かを突きつけていました。そういう風に私は連れ去られていきました。」



姜徳景

慰安婦として名乗り出て証言を行った朝鮮人。

富山県で「小林」という憲兵にさらわれ強姦され、(中略)その後、トラックに乗せられ、畑が広がる場所の大きな部隊の20人くらいの女がいる慰安所で兵隊の相手をさせられたと証言。

この時期に富山地区憲兵隊に勤務していた憲兵は単独行動はしないことやトラックでなくサイドカーを使うこと、「小林」という憲兵は存在しないこと、近くに遊郭があったことから連行する必要性が薄いことから、疑問が残る証言になっている。

恐らく、憲兵ではなく遊郭と関わりのある業者(日本人)で軍服に似た国民服を着ていたものに拉致された可能性が高い。

金君子

自身が慰安婦であった旨各地で証言している朝鮮人女性。

16歳の時、養父に「お金を稼げる場所があるので行っておいで、稼げなかったら帰ってくればいいから」と言われ、家まで連れにきた朝鮮人の軍人と一緒に連れられて言ったと証言。

その後、2005年には養父から「お使いにいっておくれ」と言われて記者に乗せられたと証言が変わっている。

2006年には、17歳の時、家に朝鮮人2人が来て「工場で働かせてあげる」と言われ列車で中国の琿春に連れて行かれ慰安婦となったと年齢と証言が変わっている。

李玉善

釜山出身の朝鮮人女性。慰安婦として各地で証言している。

「ある日、店の人からお使いに出された時、日本人と朝鮮人の男性2人に行き先も告げられず無理やりトラックに乗せられ、中国の延吉に連れて行かれた。」と証言している。他には、朝鮮人2人に連れ去られたという証言の時もある

鄭書云

慰安婦の証言者。「挺身隊おばあさん」として韓国では有名な人。

「13歳の時(1937年)、インドネシアに連れて行かれて7年間慰安婦となった」と証言。
しかし、1937年当時はインドネシアはオランダ領であり、日本軍はいなかった。

日本軍がインドネシアに行ったのは。1942年以降であり、そうすると19歳以上になり、証言がおかしくなる。

また、「終戦時に日本軍の慰安婦生き埋め計画を知り、連合軍に通報して阻止した。」とも証言しているが、もしそれが事実なら、連合軍から戦犯として処刑されたはずなのにそんな戦犯はいなかった。

文玉珠

朝鮮人女性。キーセンになろうと思ったが、兄に反対されている。

その後、16歳で朝鮮人の運営する慰安所へ強制連行され、18歳でキーセン学校へ行き、キーセンとして働いている。

そして、友人から「食堂で働けば金儲けが出来る」という誘いにのり、1942年7月10日釜山港から船に乗った。

ラングーンで慰安婦にさせられる事を朝鮮人の日本軍兵士から聞いて、騙された事を知ったが、同時にやはりそうかと妙に納得した。

ビルマでは、チップが貯まったとして、「千円あれば大邱に小さな家が一軒買える。母に少しは楽をさせてあげられる。

晴れがましくて、本当にうれしかった。貯金通帳はわたしの宝物となった」と語り、母親に小さな家が何軒も買える大金を送金したことや、許可を得て5千円を実家に送ったことを語っている。

また「週に一度か二度、許可をもらって外出することができた。人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった。」とし、「ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠が安かった。(中略)わたしも一つぐらいもっていたほうがいいかと思い、思い切ってダイヤモンドを買った。」と現地での楽しみを語っている。

1992年、慰安婦時代の2年半の間に貯めた郵便貯金2万6145円の返還請求訴訟を行ったが日韓請求権並びに経済協力協定で解決済みとされ敗訴した(千円で家が買えたという時代に貯めている)。

強制連行した人が軍人なのか民間人なのか確定できないでいるが、大金を貰っていた証人として証言をよく引用されている。

黄錦周

朝鮮人。20歳で日本の工場に働きに行き、日本軍のテントで3日に1回将校の部屋に呼ばれ強姦された。

半月後、慰安所に移動。その後、24歳の終戦時まで慰安婦を続けさせられる。

証言では1938年に多くの女性と一緒に列車に乗ったと言っているが、朝鮮人女性に動員令が出たのは1944年であり、矛盾が生じている

宋神道

宮城県に在住していた在日韓国人女性。

生活保護受給者として日本の宮城県で生活していたが、慰安婦として名乗り出て、「在日の慰安婦裁判を支える会」を発足し、日本政府に謝罪と損害賠償767億5893万7500円の支払いを求めて訴訟するも全面敗訴している。

知人の朝鮮人女性に「嫁になど行かなくても、戦地に行って働けば金になり、一人で生きて行ける。戦地へ行って御国のために働かないか」と話を持ちかけられ、戦地の意味も仕事の内容も分からないまま平壌に向かったところ、新義州の紹介所と言われる場所で高(コウ)という朝鮮人男性の仲介で慰安所に入ったが、この際の代金が宋の借金とされたため、宗は「騙された」と主張している

ジャン・ラフ・オハーン

強制的にインドネシアで慰安婦にされたと主張しているオランダ人。現在はオーストラリア国籍。

21歳の時、日本軍将校がやってきて「17歳以上の独身女性は整列しろ」と言われた。
将校達は整列した少女の身体を上から下まで見て仲間内で笑いあった。

16名の少女が選別されトラックに移るように命令された。女性が抗議したが受け入れられなかった。スマランについて7名が下ろされ慰安所で部屋が割り当てられた。将校が毎日来て強姦された。

やってきた日本人が『日本人の性の慰みのためにここにいるのだ』と説明したと証言しています。約2か月もの間、慰安婦として働かされた。

オハーンが日本語を話せたかどうかは不明で日本兵がオランダ語を話せたかどうかは不明。

また、この事件は「白馬事件」と言われ、この「白馬事件」は、戦後の1948年に女性たちの告発によりBC級裁判の法廷で裁かれ、死刑を含む11名の有罪者を出しており(有罪者の中には軍人の他に慰安所を経営していた日本人業者も含まれていた)、法廷では慰安婦にされた35名のうち25名が強制だったと認定されました。

ちなみに1994年のオランダの政府報告書では、慰安所で働いていた白人女性200から300名の内、少なくとも65名は強制売春の犠牲者だとしている(残り135名から235名は高額の報酬で慰安婦になることを同意したものと思われる)。

スマランからボゴールに移動した後は、強姦や性交渉は強要されておらず、強姦未遂を起こした日本人衛兵は、その場で日本軍によって拳銃自殺を強要されているとも証言している。

彼女の証言は戦後、東京裁判前に行われたもので、信ぴょう性は高い。
他の朝鮮人慰安婦の様に戦後何十年も経って急に出てきたものではないので、同列に扱うべきものではないと思っています。

一応、裁判で死刑になった岡田慶治少佐(スマランとは違う慰安所)の手記も紹介しておく。

『将校クラブの婦人たちをよく可愛がってやったつもり……その彼女たちが告訴している。それも嘘八百を並べて……時勢が変わったので我々に協力していたことになっては彼女達の立場がないのかと想像……起訴状を見ると首謀者にされている……「そうか飼犬に手を咬まれたのだ。もう何も言うことはない」と覚悟した……敵の銃口の前に立って、日本軍人の死に態を見せてやることではなかろうか。』

もう一つ付け加えておきたいのが、
連行された女性の父のオランダ人が日本軍上層部に強制的な連行と売春の事実を報告したところ、すぐにその訴えが認められ、現地の第16軍司令部はスマラン慰安所を即時、閉鎖させています。同慰安所が存在したのは2か月間だった。

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